浅尾藩陣屋

別名-  付近住所 岡山県総社市門田 現在 稲荷神社
2007/7/21 碑・案内板アリ


蒔田氏
広定→

旗本
定正→
定行→
定矩→
定英→
定安→
定静→
定祥→
定邦→
定庸→
広運→

立藩
広孝 
 浅尾藩主、初代蒔田広定は、慶長8年(1603)に、一万石の、大名となり、この総社の地を、本拠とし、旧総社町の一部、備中国分寺のある、旧、三須村などが、領地でした。
 寛永13年(1636)第二代、定正のときに、弟の、長広に領地の一部を分割した為め、
一万石を割って、旗本となり、以後、約230年間、旗本の時代が続きます。
 幕末の、文久3年(1862)第十二代、広孝のとき、高直しを、許されて、再び、一万石の大名となり、旗本時代、井手の、知行所を廃して、この浅尾の地に、陣屋を構築しました。
 元治元年(1864)の「蛤御門の変」において蒔田広孝は、京都見廻役として、京都警固任にあたり、長州勢を撃退しました。
 このことが、遠因してか、慶応2年(1866)4月12日に、長州第二奇兵隊を脱走した。
 いわゆる「倉敷浅尾騒動」により、陣屋の、大部分が、焼失し、その後、十分な再建も、されることく明治維新を迎えました。
 この陣屋は、低丘陵上(標高、約30m)にあり、山頂を、占居(約10町歩)として、山城の城郭構造の、系流に属するもので、藩主の、系流に属するもので、藩主の御殿を中心に、家中家紋や、御台場、調練場を配し土塀(一部が残存しており、今回の復元の参考としとした。)等で周囲の言葉を固め、一定の城郭構造と、なっています。

        

HOME